狩野探幽 狩野探幽は浮世絵師

狩野探幽:浮世絵師…その2

幕府御用絵師になりよった狩野探幽浮世絵師は、徳川幕府のようけの建築物に狩野派の統率者としてその腕を振るおったんや。狩野探幽浮世絵師が狩野派の絵師を束ねて製作したのは、江戸城内の障壁画はもとより徳川家の霊廟装飾、二条城、名古屋城上洛殿、大阪城、大徳寺やらなんやらのようけの大寺院の障壁画やらなんやら、ホンマに多岐に渡っていまんねん。
こうした狩野探幽浮世絵師の活躍が、江戸時代の狩野派の確固たる地位を確立したといってよいやろわ。
狩野探幽浮世絵師は狩野派伝統の技法を受け継ぎつつ、独自の「余白」を使いこなしておったんや。余白をたっぷりと取った穏ややろか画風が、狩野探幽浮世絵師の後年の作品には数ようけ見られまんねん。
また狩野探幽浮世絵師は、室町時代から続く狩野派の伝統的技法を江戸時代にあわせて改変していきたんやちうわけや。以後長年伝承されていくことになる狩野派様式の基礎を確立したのが狩野探幽浮世絵師なのや。